久能石垣いちごの歴史

明治維新を期に宿屋、福島屋を廃業、久能山東照宮に奉仕するに至り、
明治二十九年松平健雄宮司より託された苺苗を玉石の間に植え、温室の無い時代、
地道な観察と研究の末、冬にもかかわらず石の輻射熱で苺を栽培、
甘く香りのある実をつけることを実証した。


玉石による石垣栽培をはじめた石垣
(当時の苺の品種は、エキセルシャ種)
現在も玉石垣を保存、苺栽培をしております。
久能石垣いちご記念碑
石垣栽培について

静岡県久能のいちご狩りでは、古くから石垣栽培で育てて「いちご狩り」を行っています。
玉石による石垣

コンクリート板作り

石垣栽培への工夫

石垣栽培とは玉石を一定の角度に積み上げていきます。、
この作り方が軌道に乗るまでには明治35年頃から大正の初めまで
20年程の歳月がかかりました。
玉石栽培を始めた当時は、波の大きな時や雨が降った後に、我先にと海や川原で石を拾い集め、イチゴ山にかつぎあげ、石垣に積み上げていました。この時、雨が降っても石垣が崩れないように積む方法、太陽の光が良く当たる方法や傾斜角度を決めるのに苦労したようです。また定植後の潅水は木桶でかついで運び、ジョロで灌水していましたが、1日に3〜4回も実地したので灌水作業は非常な重労働でした。また販売も天秤でかついだり、荷車で静岡市内まで出荷したが、思うようには売れませんでした。その後東京や関西市場へ販売するようになったのは「ビクトリア」が導入されてからの大正に入ってからです。

コンクリート板の考案…

石垣栽培の増加に伴い玉石を入手することが難しくなり、
更に定植の際に毎年玉石を積み替える作業が非常に重労働で能率も悪く、この栽培を妨げていました。そこで大正12年にコンクリート板が考案されました。当時の板と現在のものと比較すると大きさ(45p×15p)は今と変わりませんが、当時のものはやや厚みがあり、小石を多くいれた点が異なっています。
コンクリート板の考案によって石垣栽培の面積は急激に増加し
昭和14年頃に最盛期となりました。
石垣を利用した育苗の様子
 

石垣栽培とは…

厚さ2p、タテ15p、ヨコ45pのコンクリート板の上側に15pおきに3ヵ所
鋸歯状に切り込みを作り、この板を60〜70度の傾斜に7〜8段積み、
鋸歯状の切り込みにイチゴ苗を植え、栽培する方法でです。
石垣を積む傾斜は、崩れ難い角度であり、太陽光線を直角に受けると同時に
海岸線にある場合は海面からの放射熱を受け、保温効果を高め、果実の熟期を
早めます。しかし傾斜地栽培のため、元肥の施用は、石垣を積み替えする時に
施し、追肥も株ごとに1〜2回施します。ハウスも石垣ごとに被覆し、灌水も
ジョロ又は自動灌水水でありますが、管理に多くの労力を要します。
10a当りの植え付け株数はm平地で12,000〜13,000株、傾斜地で20,000〜40,000株
となり、経営規模は株数が単位でありますが、「章姫」に代表される促成で大型タイプ
の品種の普及に伴い一段おきの定植となり、植え付け株数は、以前の60%に減少
していますが、生産性は向上しています。

石垣栽培の解説図
石垣栽培の解説図
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